内田百閒

内田百閒(うちだひゃっけん)は、岡山市の酒造家の一人息子として生まれました。旧制六校から東京帝国大学独文科に入学し、ドイツ語教授をした後の1934年(昭和9年)に文筆生活に入ったそうです。1889年に生まれ1971年に亡くなり82歳の寿命でした。百鬼園随筆や阿房列車などの面白い作品があります。

内田百閒は、岡山楽天 出身の偉大な作家ですが、私は今まで彼の本を読んだことがなかったので、1冊ずつ読んでいきたいと思います。

百鬼園随筆(ひゃっきえんずいひつ) 

まず、今までに読んだことが無いような本でした。常識という枠からはみだした考えに驚きました。借金をする話がありますが、生活のための借金というわけでもなさそうです。内田百閒独自の物の考え方が面白くて、クスッと笑わせてくれます。

この本の最後の解説の欄に川上弘美氏が書いていますが、芸術院会員の辞退の時の話です。

「貧乏な自分には60万円の年金は有難いが、自分の気持ちを大切にしたいので、どんな組織にでも入るのが嫌だから辞退する」という内田百閒の気持ちが、この本を読むと少しわかる気がしました。

百鬼園(ひゃっきえん)と言う名前は、百閒(ひゃっけん)に通じるようです。「ひゃっけん」「ひゃっけん」から「ひゃっきえん」へと変化したのでしょうか。おやじギャグなのか、考え尽くされた計算なのか、読者への挑戦なのか、良いできだと一人ほくそ笑んでいたのでしょうか、生の内田百閒に会いたかったと思います。

 「百鬼園随筆」 新潮文庫 514円(税別)

第一阿房列車(だいいちあほうれっしゃ)

「第一阿房列車」と言う本の題名を見た時に、「だいいちあぼうれっしゃ」だと思いました。ところが、本の題名の所に「あほう」とふりがながうってあるではありませんか。「やられた」と、思いましたよ。

「百鬼園随筆」を読んでいたにもかかわらず、表紙に写っている真面目な顔の内田百閒を見ていると「あほうはないよな」と思ってしまうのです。

ただ鉄道が好きで、ありきたりの観光は好まない百閒は、行き当たりばったりの列車の旅を描いています。「ヒマラヤ山系」さんとの二人旅で、お酒をともに列車内でのできごと、宿の話、駅の話などで、現地の観光などはほとんどされていません。ただ、お酒を飲みながら列車を楽しむというのが、「阿房列車」の神髄のようでした。

ここにも内田百閒にしかできない描写があり、読者を百閒ワールドへはめてしまうのでした。新潮文庫からは、第一阿房列車、第二阿房列車、第三阿房列車が出版されています。

内田百閒の年表

1889年(明治22年)5月29日 岡山市古京町の裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として生まれた。本名は内田栄造。

1905年(16歳) 父の内田久吉が死去し、実家の志保屋が倒産し、困窮することになった。祖母、母と3人で暮らした。第6高等学校に入学し、俳句に熱を上げる。俳号を「百間のちに百閒」としています。俳号に数字を入れることが流行っていたそうです。岡山市の北には百間川が流れている。第6高等学校を卒業後は、東京帝国大学文化大学独文科に入学し、東京に転居した。

1911年(22歳) 療養中の夏目漱石を見舞い門弟となった。

1912年(23歳) 中学時代の親友堀野寛の妹、堀野清子と結婚。

1914年(25歳) 東京帝国大学独文科卒業。漱石の所で、後輩の芥川龍之介と親交を深めた。

1916年(27歳) 陸軍士官学校・ド゜イツ語教授になった。

1918年(29歳) 海軍機関学校・ドイツ語学兼務教授となった。(芥川の推薦による)

1920年(31歳) 法政大学教授となった。祖母・竹が死去。

1922年(33歳) 処女作品集「冥土」刊行。

1923年(34歳) 陸軍砲工学校教授となった。関東大震災にあう。

1925年(36歳) 陸軍士官学校・ド゜イツ語教授を止めた。家族と別居。

1929年(40歳) 東京市牛込区に転居し、佐藤こひと同居。

1933年(44歳) 「百鬼園随筆」を刊行。ベストセラーとなった。

1936年(47歳) 長男・久吉(24歳)死去。

1939年(50歳) 日本郵船の嘱託となった。6年間つとめた。

1945年(56歳) 東京大空襲で麹町の居宅を焼失した。

1948年(59歳) 千代田区六番町へ「三畳御殿」ができた。

1950年(61歳) 大阪へ一泊二日の旅をし、小説「特別阿房列車」を執筆。

1957年(68歳) 「ノラや」などの随筆を書いた。

1959年(70歳) 小説新潮に「百鬼園随筆」連載開始し、死の前年まで書いた。

1964年(75歳) 妻・清子が72歳で死去し、佐藤こひを入籍。

1967年(78歳) 芸術院会員に推薦されたが断った。辞退の弁が「イヤダカラ、イヤダ」として有名になった。

1970年(81歳) 百鬼園随筆の「猫が口を利いた」を最後に絶筆となった。

1971年(81歳) 東京の自宅で老衰により死去。満81歳でした。 

内田百閒の人柄

おいたち
祖母・竹に溺愛されて育ったためか、わがまま、がんこ、偏屈、無愛想な人物として見られていたようです。実際に内田百閒の写真を見ると、口をへの字に結んで、目玉は人を凝視し人の心を見透かすようなするどい眼差しに、私には見えました。これは、内田百閒の作戦でしょうか。
官僚趣味
内田百閒自身が公言しているそうです。規則秩序、位階勲等が好きだったようです。そうでなければ、陸軍や海軍などにドイツ語を教えに行かなかったと思いますね。
摩阿陀会・まあだかい
法政大学の教え子が、毎年百閒の誕生日の5月29日に誕生パーティーを開きました。この会が「摩阿陀会」です。「まあだかい」は、還暦祝いをしたのにまだ死なない、まあだかい、という意味だそうです。内田百閒のいたずら心やユーモアをそのまま受け継いでいます。そして、内田百閒は意外にも教え子から慕われていたのです。偏屈な文章から百閒の人間像を大いに誤解していたと思いました。
借金
度重なる借金をして学び、独自の借金の流儀や哲学を持つほどになりました。借金の原因が何であるのか明らかにされていません。
岡山にいた時から熱心に琴に取り組んでいました。東京へ出てからは、宮城道雄氏に師事し、後には大親友になりました。
鉄道
目的もなく汽車に乗ることを楽しむという「阿房列車」。酒豪であったためか、旅の往復でお酒を飲んでいたそうです。
故郷・岡山
人一倍・故郷岡山を愛していました。阿房列車の旅では、必ず岡山駅のホームを踏んだそうです。「大手まんぢゅう」も大好きでした。大切な思い出・記憶に残る古里を壊したくないと言って、変化した岡山へ帰ろうとはしませんでした。昭和17年、恩師の葬儀に出てすぐに帰っただけです。昭和46年、81歳での死後に百閒の遺骨は分骨し、先祖代々墓へも納められました。30年ぶりの帰郷を果たしました。
晩年、猫のノラとクルツを溺愛しました。「ノラや」「クルやお前もか」の作品になっています。    

第10回内田百閒文学賞

内田百閒文学賞
岡山市出身の内田百閒(1889~1971)の生誕100年を記念し、1990年に創設されました。2年ごとに長編小説部門(最優秀の賞金200万円)と随筆部門(同100万円)で作品を募集していました。が、財政危機のために2009年度は予算がつかず休止に追い込まれました。その後、県エッセイストクラブや小川洋子さんなどから惜しむ声が寄せられ、岡山県は部門を随筆及び短編小説のみにするなど経費削減の方策を検討し再開しました。これまでの7月初旬から10月中旬に募集がずれ込みました。
最優秀賞
「猿尾の記憶」 会社員 浅沼郁男(49)
優秀賞
「物原を踏みて」 無職 吉野栄(本名・横山節夫)(62)岡山市中区/「くるり用水のかめんた」 会社員 小薗ミサオ(本名・小谷桂一)(47)岡山市南区/「震える水」 主婦 畔地里美(59)石川県加賀市
キキョウの花
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更新日:2020/03/15