吉備真備(きびのまきび)

吉備真備は、695年に現在の岡山県倉敷市真備町箭田(やた)に生まれました。父は下道国勝で吉備地方の有力な豪族である吉備氏の一族でした。

吉備真備は、囲碁のの元祖、カタカナの発明者、戦の天才、魔法使いなどの功績が輝かしい立派な人でした。郷土の誇りとして尊敬し、少しでも近づけるようにしたいものです。

遣唐使として学ぶ

吉備真備は、22歳と57歳の時の2回、遣唐留学生、遣唐使として中国に渡り、中国の進んだ学問を勉強して来ました。

その頃の日本は首都は平城京、疫病(天然痘)やひでりで飢饉、内乱で混乱していました。国家の存亡をかけて優秀な人物を唐に送り、大陸の進んだ軍事や最先端の文化や制度を学ばせてこようというものでした。

吉備真備は、大学で中国語を学んでいました。優秀なので15歳で特別に入学したほどでした。

遣唐使について

吉備真備楽天 は、22歳で第8回遣唐使として557人の大集団の中で唐へ渡りました。717年に阿倍仲麻呂や玄ぼうらとともに入唐しました。この当時の船では、無事に唐に着くのは1/4しかなかったそうです。ベトナムやタイへ流されて殺された人もいました。

4隻に分乗、1隻当たり150人近く乗船しました。そのうち70〜80人は船員でした。後は、外交官の役目の大使・副使や仏教関係、金属加工・木工・ガラス製造関係、舞踊・ダンス関係、画家(取材カメラマン)、陰陽師(星の観察・針路)の人たちでした。

食料は、蒸したもち米にお湯をかけたものをおにぎりにしたそうです。しかやいのししの干し肉、酒かすで漬けたうり、干し柿、くるみ、鰹節などでした。

乗船している人たちは、船のバランスをとるために協力しました。夏から秋にかけて日本を出発しました、それは中国の正月に合わせるためでした。

中国のお正月には、国内外のVIPが唐へ集まりました。アジア〜ヨーロッパまで50ヶ国の人々が集まっていました。

阿部仲麻呂の活躍

吉備真備と同時に入唐した阿部仲麻呂は、698年に大和国に生まれ、学問に秀でていました。

唐の太学で学び、科挙に合格しました。唐の朝廷では、文学方面の役職を勤めました。李白、王維などの詩人と親交を深めました。

733年、第10回遣唐使が来ましたが、唐での仕事を続けるために帰国しませんでした。この帰りの船は1隻が種子島に漂流しただけで、後の3隻は難破しました。

この時に帰国した吉備真備と玄ぼうは、第1船にの乗っていて助かりました。

第2船は、福建方面に漂流しました。752年第12回遣唐使が来ました。在唐35年の阿部仲麻呂は翌年帰国を図りましたが、阿部仲麻呂の乗った第1船は暴風雨のために唐の南方へ流されました。755年長安に帰国しました。もう帰国を断念した阿部仲麻呂はベトナム総督などを勤め、770年1月73歳で生涯を終えました。

仲麻呂が玄宗に重用されて朝衡という唐名を名乗り、唐で昇進を重ねていたことから、日本では天皇の勅命を捨てたという噂が流れ、逆臣であるとして所領が没収されたとか。阿部仲麻呂の子である満月丸が後の阿部清明の先祖に当たると言われています。

唐から帰国後の活躍・業績

「学者でありながら政治の中枢である右大臣にまで上り詰めた」人は、吉備真備と菅原道真のたった二人しかなしえなかった偉業と言われています。

天平18年(746年)10月19日、下道(臣、朝臣)真備。吉備の氏と朝臣の姓を給い、吉備朝臣真備と変わり、以後吉備真備と称しました。

吉備真備による大学制度改革、新しい暦の利用、漢音の普及

帰国後は、大学制度改革、新しい暦の利用、漢音の普及に努めました。阿部内親王の相談役を務めていたようです。藤原仲麻呂は、天皇の知恵袋は目障りであるとして、吉備真備を二度目の遣唐使として唐へやりました(752年〜754年)。

吉備真備の2回目の遣唐使には、鑑真の招聘が任務として課されていました。また、新羅との関係を有利に持っていけるように唐に働きかける狙いもあったようです。また、当時建造中であった東大寺の大仏に使う金箔が不足していたので、唐での金の調達も重要な任務として課されていたようです。

二回目の唐渡航より帰国した後は、吉備真備は太宰府大弐という職につきます。政敵ともいえる藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では鎮圧の指揮を取り、以後は右大臣への出世街道をひた走ります。

764年孝謙天皇はついに怒り、吉備真備とともに、藤原仲麻呂を討つべく兵をあげました。吉備真備は孫子の兵法を学んだことを使い戦いました。先んじて相手の大事なものを押さえるというものです。

こちらの作戦に乗せるように計るべし、(1)琵琶湖の南のせたの橋を落とし近江に行けないようにする。(2)越前の息子を落とす。(3)はさみうちにする。という作戦でした。

吉備真備と道鏡

道鏡というのは奈良時代の法相宗の僧侶で、孝謙天皇の寵愛を受けて出世した時の権力者です。天皇の位を狙うほどに絶大な権力を握っていたとされ、事実、道鏡は天皇に准じる扱いを受ける法王という位につき権勢を誇っていました。

朝廷内には、僧侶である道鏡が政治の中枢に居座っていることに疑念や不満を抱く者も多く、そんな者たちの支持のもと、真備と同じ岡山出身の和気清麻呂が道鏡への皇位継承を阻んだとされています。

吉備真備を左遷した藤原仲麻呂が失脚し、中央政権の実権を握った道鏡は真備を要職に任用するようになり、道鏡が法王に就任すると真備はついに右大臣に任命されました。そこで、吉備真備は道鏡に頭が上がらなかったのかもしれません。

吉備真備は、道理が通らないものは通らないと、徹底した合理主義を貫きました。そして、81歳で亡くなりました。その当時としては大変長寿だと思います。

遣唐使も平安時代には終わりを告げました。菅原道真は、「もう、200年あまり続いた遣唐使を続ける必要はない」と箴言しました。

吉備大臣入唐絵巻(吉備真備の数々の業績)

「吉備大臣入唐絵巻」は、400年後の平安時代に描かれています。そして、後白河上皇の命で三十三間堂(京都市)に納められていましたが、戸田さんという方が大正12年に現在の価格で2億円相当で買われたようです。その後アメリカのボストン美術館に買い取られました。

「鬼をあやつり」「空を飛ぶ」という魔法使いとして、描かれています。

22歳で日本を出発し、40歳で帰国しました。その間唐での17年間に天文学(天体に関すること)や太陰暦(暦に関すること)も学びました。

暦は作物の種まきや収穫に欠かせないものでした。そして、それは税を計画的に集めることに繋がっていました。この太陰暦はその後100年間使われました。

またこの絵巻には、吉備真備は1日で唐の書物を学んだことになっています。漢音(かんおん)を学んだそうです。以前は呉音(ごおん)だったらしく、もっと古いそうです。

囲碁がうまかったそうですが、名人の碁石を飲み込んで勝ったようです。

兵法や太陽の動き、合理的な思考法なども学びました。

カタカナの元祖、囲碁の元祖、陰陽師(占いや祈祷をし、将来の災いを祓う)の元祖と言われています。

吉備真備は、中国でも結婚し子供がいたそうです。

「吉備真備公園」(きびのまきびこうえん)小田郡矢掛町東三成

岡山県小田郡矢掛町東三成(やかげちょうひがしみなり)には、吉備真備公園があります。「吉備真備公園」(きびのまきびこうえん)は、日中友好の印として末長く親しまれる公園を目指し整備されています。

吉備真備は、倉敷市真備町(くらしきしまびちょう)が有名ですが、矢掛町東三成で発見された銅製の骨蔵器が真備の祖母のものであることが判明し、矢掛町が吉備真備ゆかりの地として注目されるようになりました。

吉備公祭(きびこうさい)

吉備公祭(きびこうさい)は、毎年5月5日のこどもの日に行われます。朝9時から、綿菓子、特産品販売、町内商店の出店、お茶席、きび様赤飯などのコーナーがあり、様々な物が販売されています。10時半からは、手打ちうどんの店も始まります。

催し物は、9時からは拝殿で神事が行われます。9時50分からは、古代の丘でこども大会が、10時50分からは大臣館奉納舞台でこども神楽が、12時からは古代の丘ステージで大正琴、日本舞踊、やかげHONJINバンドの演奏や舞踊が披露されます。13時40分からは七地区選抜カラオケ大会、ほたる歌謡ショー(日本クラウン所属 矢掛町出身)があります。

15時20分からは餅まき大会です。行事が前倒しに進むと、餅まき大会も早くなることもありますから、餅を拾いたい人は少し早めに行っておかれるようにお勧めします。

吉備真備公園へのアクセス
井原線三谷駅から東へ1500mの所にあります。駐車場は、大神宮境内および吉備公河川公園にあります。吉備公祭当日は、大変混み合いますから、車は吉備公河川公園に置いた方が良いです。
ご祈願・おみくじ等
おみくじ 100円、交通安全守 500円、肌守 300円、 奉納幟 5000円、木札 1000円、絵馬 500円、守矢 500円、特別祈願 5000円、入学・進学祈願 5000円、合格祈願守 300円、 真備公ストラップ 500円
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更新日:2016/08/30