緒方洪庵(おがたこうあん)

緒方洪庵(おがたこうあん)は、岡山県岡山市北区足守の生まれです。生誕地の実家跡には、緒方洪庵(おがたこうあん)の大きな坐像があります。医師としての立派な働きを顕彰するために建てられました。

緒方洪庵は、日本の武士・足守藩士、医師、蘭学者でもあります。大坂に適塾を開き、優秀な人材を多く育てました。天然痘やコレラの治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。緒方洪庵について詳しく知りたいと思います。

NHKの「ヒストリア」などを参考にしています。

緒方洪庵とは

緒方洪庵は、1810年生まれで、1863年まで活躍しました。享年は数えで54歳でした。

足守藩下級藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として足守(現・岡山県岡山市北区足守)に生まれ、8歳のとき天然痘にかかったそうです。15歳で父の仕事について大阪へ出ました。翌年、私塾「思々斎塾」で4年間、蘭学、特に医学を学びました。

21歳の時には、江戸で坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだそうです。

26歳の時には、長崎へ遊学、オランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学びました。この頃から緒方洪庵と名乗ったようです。

28歳の時には、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業し、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚し、のちには6男7女をもうけました。7年後には、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転しました。

39歳の時には、京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始めました。

40歳の時には、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施しました。8年後には、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制としました。

52歳の時には、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕しました。将軍徳川家茂や篤姫の侍医として仕えました。12月26日「法眼」に叙せられました。

53歳(満年齢)の時には、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去しました。

適塾

緒方洪庵楽天 は28歳の時には、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業し、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。

1階は自宅として使い、2階は塾生の生活の場、学習の場や寝室として使われていました。大分の下級藩士の二男・福沢諭吉も適塾で学びました。適塾には、貧乏な者が多く襦袢もなく真っ裸ですごしていたり、汚いことも気にかけない者が多かったそうです。

勉強をさせるための緒方洪庵の案とは

畳取り合いレース
適塾では、40畳の大広間に塾生が1人に1畳あてがわれていたそうです。テストで上位の者には、日当たりの良い、窓のある場所の畳が当てられ、最下位の者には階段のそばの畳があてがわれました。そこで、塾生達は、寝食を忘れるほど勉強しだしたそうです。
高価な洋書を借りて来た
緒方洪庵は、1冊の洋書を借りて来ました。3日後には返さなくてはなりません。洋書は珍しいもので、本の値段は今の価値で500万円もする物でした。塾生達は、ただ返すのはもったいないので、2日間徹夜をして書き写しました。

天然痘対策

その当時は、天然痘に罹った子どもがたくさん亡くなっていました。

緒方洪庵は、39歳の時には京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を手に入れました。古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始めました。

4年間で6万人の子ども達に接種し、死亡率を激減させました。種痘は、四方八方に、全国に広がっていきました。

コレラ対策

安政5年6月頃、長崎で二度目のコレラが発生しました。そしてコレラの猛威は長崎から1ヶ月で西日本に広がり、また大阪や江戸までも広まりました。この時の江戸の死亡者は24万人とも言われています。

大阪でも道端で吐いている者がおり、1日800人がコレラで死んだそうです。その当時コレラの原因は不明で、適塾でも死者が出ました。

オランダ人のポンペという医師が、マラリアの治療に使われていたキニーネがコレラに効くと言いました。そこで、ポンぺの治療法を採用する医者が多く、キニーネが不足し、全く間に合わないという事態になってしまいました。

この状態を見かねた洪庵は、「モスト」・「カンスタット」・「コンラジ」という3つの書物から、コレラについて書かれている部分を訳しまとめ上げ、「虎狼痢治準」として8月に100部刊行、無料で配布しました。

洪庵は「虎狼痢治準」とは別に、医者のために「家塾虎狼痢治則」という治療法を簡潔に記したものも書きました。急いで書き上げられた「虎狼痢治準」は部分的に内容に反論をされたり、本を批判されたりしたが、洪庵は患者を救うことを第一に考えていました。

緒方洪庵のライバル、華岡青洲

ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったようです。

しかし、洪庵は華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあったそうです。

華岡青洲は、妹のお勝が33歳で乳がんで死亡したことから、乳がんの手術には全身麻酔が必要と感じ、その研究に没頭しました。まんだらげ(チョウセンアサガオ)に着目し、他の薬と6種を混ぜて薬を作り、自分の体で実験しました。

その様子を見かねて、妻が自分を実験に使ってくれと申し出ました。その後、妻は薬の副作用で視力を失いました。10年以上経った1804年、ついに乳がんの患者に全身麻酔をかけて手術を行うことができました。10時間後には、みごとに麻酔から目覚めました。西洋よりも、なんと40年も早く全身麻酔を行うことができたのでした。

その後は、青森から福岡県までの143名の乳がん手術を行ったと言うことです。華岡青洲は、76歳で死去しました。

適塾の卒業生達の活躍

福沢諭吉
豊前中津藩蔵屋敷のあった大坂(大阪)堂島に生まれ、豊前中津藩(現・大分県中津市)で育ちました。慶應義塾(慶應義塾大学)の創始者です。江戸末期に蘭学から英学者へと転じ、江戸幕府の遣欧使節として3回派遣されました。
大村益次郎
周防国の医師の家に生まれました。洋学・兵学に明るく、近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想しました。
橋本左内
福井県生まれ、幕末の志士です。父は福井藩医でした。大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得、その後江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友しました。帰国後、書院番・藩校明道館学監同様心得などに取り立てられ、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となった。安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、井伊直弼の大老就任により挫折。安政の大獄により江戸で斬首されました。
佐野常民
日本の武士・佐賀藩士で、明治期には元老院議員となりました。日本赤十字社の創始者です。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿を務めました。勲一等、伯爵。佐賀の七賢人に挙げられています。
手塚良仙
幕末・明治の医師・蘭学者です。息子は司法官の手塚太郎。大槻俊斎は義弟にあたります。漫画家の手塚治虫の曾祖父です。
大鳥圭介
日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官でした。正二位勲一等男爵。
長与専斎
日本の医師、医学者、官僚。大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となりました(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医にもなりました。
高松凌雲
幕末から明治期の医師で、現在の福岡県小郡市出身でした。箱館戦争では箱館病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設しました。日本における赤十字運動の先駆者とされます。

洪庵の人柄と教養

洪庵の人柄は温厚至極で、およそ怒りを発したことが無かったそうです。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり。」と評しています。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責したようです。笑顔で教え諭すやり方で、これではかえって塾生は緊張し「先生の微笑んだ時のほうが怖い。」と塾生は言っていたそうです。

語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語で先生の意味)と呼ばれ敬愛されました。原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたのようです。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせました。

晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し英語学習も開始しました。洪庵自身や門人、息子にも英語を学ばせるためでした。柔軟な思考は最後まで衰えなかったそうです。

洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注ぎました。患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためだそうです。

また、診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていたようです。和歌は最も得意で、古典への造詣の深さがうかがわれます。

キキョウの花
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Author:Tomoko Ishikawa Valid HTML5 Valid CSS
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更新日:2016/08/30