葛飾北斎(かつしかほくさい)

「歴史秘話ヒストリア」では、葛飾北斎を取り上げていました。葛飾北斎と言えば、冨嶽三十六景が有名です。教科書でも葛飾北斎の赤富士や大波の向こうに小さな富士山(グレートウエーブと呼ばれる)が描かれた絵が紹介されていました。

葛飾北斎の絵に対する思いや生涯を紹介していました。

葛飾北斎とは

葛飾北斎(1760年10月31日?〜嘉永2年4月18日)は、江戸時代後期の浮世絵師です。化政文化を代表する一人で、代表作に「富嶽三十六景」や「北斎漫画」があり、世界的にも有名です。

浮世絵楽天 を描く人は、浮世絵師、または絵師・画工と呼ばれます。浮世絵師が描いた絵を木版に彫るのが彫師・彫工です。彩色して紙に摺るのが摺師・摺工です。

浮世絵は、共同作業の作品となりますが、絵師の名だけが残される風習があるようです。また、注文主がいなければ、商売にはなりません。

葛飾北斎の生涯

葛飾北斎は、現在の東京スカイツリーの下の辺りの、葛飾区本所の生まれでした。18歳の時に勝川春章に弟子入りし、役者絵を描いていました。が、北斎の描く浮世絵の人気は今ひとつといった具合でした。

そして、30歳になりました。その頃歌麿は女性を描いて人気でしたし、写楽はデフォルメした役者絵を描いていました。

このままでは、ダメだと悟った葛飾北斎は、狩野派の門を叩きました。その当時の狩野派は、超エリート集団だったそうです。そこをめげずに何度も頼んで、特別に教えて貰うことができました。唐絵や西洋画などのあらゆる画法も学びました。また、王琳派、土佐派など数々の門を叩き筆使いや構図などを学んだようです。

37歳の時に、司馬江漢の絵に感動

葛飾北斎は、37歳の時に愛宕神社で1枚の絵に出会いました。司馬江漢(しばこうかん)の油絵でした。

富士山と浜に寄せる波の絵でした。初めて見た西洋ものを浮世絵で描きたいと思いました。

そして、長崎のオランダ人のために、日本人の生活を描いたものを描きました。シーボルトにも絵を売ったようです。今でもオランダでは、シーボルトの遺品の中に大切に保存してあるそうです。

その絵は、陰影のある立体的な表現法を使っていました。また、葛飾北斎は、オランダ人に半額に値切られた時には日本人の誇りを忘れずにことわりました。

72歳で、冨嶽三十六景を描いた

その頃、江戸は富士山ブームだったようです。山に登り身を清めたい、山に行けないならせめて拝みたいと人々は思っていました。

そこで、葛飾北斎は、富士山をテーマにして「冨嶽三十六景」を描きました。その頃の絵と比べると、大胆な形と奇抜な構図でした。

「冨嶽三十六景」の中の絵の一つである「神奈川沖浪裏」は、西欧の芸術家に大きな影響を与えました。ゴッホは、画家仲間宛ての手紙の中で「神奈川沖浪裏」をほめました。「神奈川沖浪裏」から発想を得たドビュッシーは交響詩「海」を作曲しました。

波頭が崩れる様子は、抽象表現とみえますが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比べると、「神奈川沖浪裏」はとても写実的な静止画であることが確かめられると、言います。

ライバルは、歌川広重

葛飾北斎と歌川広重は、一度だけ対面したことがあるそうです。が、歌川広重が教えを請いにきたのに、「しらねえよ」という横柄な態度をとったそうです。

葛飾北斎の家が汚いことにも驚いたようで、30歳代であった歌川広重は、「北斎に似た絵は絶対に出さない」と誓ったそうです。

歌川広重は、「東海道五十三次」を出しました。静寂で、哀愁のある、叙情的な作品に仕上げました。広重の絵の中の人物は、後ろ姿の背中が語ってくると言われます。

北斎の生活

北斎は、素足にぞうりをはき、天秤棒を杖にして歩いていたそうです。着物はボロボロで、挨拶を受けても挨拶はそっけなかったようです。

引越しは93回、江戸中を転々としました。名前も、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」など30ぐらい使ったそうです。家ではそばを食べて寝ました。料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかったそうです。娘のお栄も作らなかったようです。お酒は飲まなかったとする説が多いようです。

北斎は金銭に無頓着でした。北斎の画工料は通常の倍(金一分)だったそうですが、赤貧で衣服にも不自由する生活だったようです。どこにお金がいったのでしょうか。不良の孫がいたようで、その孫に無心されていたのかもしれませんね。

北斎は生涯に2度結婚し、二男四女をもうけています。

北斎漫画

全15編あり、図数は4,000図とされています。彩色摺絵本で、北斎54歳の時の作品です。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されましたが評判となり、職人の意匠手引書などにも用いられ広く普及したそうです。

さまざまな職業の人や道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれているようです。

絵描きとしての執念

富嶽百景は、75歳のときが初版(北斎改為一筆)です。3巻からなる絵本で、富士山を画題に102図を描いたスケッチ集で、当時の風物や人々の営みを巧みに交えています。

富嶽百景の後書きは、葛飾北斎の並々ならぬ図画への執念を著しており有名です。

現代に訳すと「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。

とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)

73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。

ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。

(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。

長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」と、なるそうです。・・・ウィキペディアより

ヨーロッパでの人気

19世紀末から始まったジャポニスムブームの時に、日本の浮世絵の技法が印象派画家に取り入れられました。ジャポニスムブームは、北斎漫画がまず注目されたことによって始まったとみられています。

1867年と1878年のパリ万国博覧会で、日本の文物の紹介の中の浮世絵が、当時新しい芸術運動を起こしていた印象派画家へ影響を及ぼしました。

20年前、パリの地下道に、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を模した絵が描かれました。この波を消してはならないと、ある男性は絵の具で補修しています。「富士山が日本を飛び出してパリまできたんだ」と、言います。

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Author:Tomoko Ishikawa Valid HTML5 Valid CSS
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更新日:2016/08/31